とにかく僕の場合、ものごころついたころにはすでに舞台に上がっており、父と兄を含め、親戚縁者がみな狂言師という特殊な環境に生きてきました。
だからなんでしょう、「狂言師として生きていこう」と自分から意識的に思うようになるまでは、時間がかかったように思います。実際、高校生のころ、若手の演者だけで「花形狂言少年隊」として活動していたときは、チラシ作りから出演交渉まで手作りで公演をやらせてもらって、ただただ楽しく日々を過ごしていたという感じでした。
ところが、20歳を過ぎたころ、自分たちには土台と言えるもんがないなぁと。そのまま古典を知らずに、新作狂言ばかり演じていくことの危うさに気づいたんです。
おそらくそれが、僕の最初のターニングポイントだったように思います。こうして始めたのが、心・技・体、教育的古典狂言推進準備研修錬磨の会「TOPPA!」でした。長い名前ですけど、その名の通り、古典狂言を推進準備し、研修錬磨するための活動の場です。
とはいえ、能楽堂ではない芝居小屋で狂言を演じたり、狂言とは別の演劇に挑戦したりするのは、伯父の茂山千五郎や父の茂山七五三たちの世代が開拓してくれていたことで、古典の芸を学びながらもいろんな試行錯誤をすることができたのはありがたいことだなと思っています。
俳優としてテレビや映画に出演するというのは、祖父の茂山千作(四世・人間国宝)の代からのことで、僕が映画『将軍家光の乱心・激突』に出演したのも、「竹千代役に当てはまるような年ごろの子、茂山さんのところにいませんか?」と祖父が相談を受けたのがきっかけだったそうです。
そんな感じで、20歳を過ぎてからの僕は、狂言以外のいろんなことをやりながらも、ずっと狂言師として生きてきたつもり。
ところが気がつくと、その狂言から離れてみたいと思うようになっていました。生まれたときから当たり前のように狂言があって、そうじゃない世界を見てみたくなったんですね。カッコいい言葉でいうと、狂言に渇望したかった。狂言を客観的に見て、そこにどんな魅力があるのかなぁということを再確認したかったんです。
文化庁の新進芸術家海外研修制度というのがあって、1年間、留学することができると、その話を聞いたときはピンと来ました。もうこれは、国外逃亡しか方法はないだろうと。
とはいえ、学校には東洋人が僕と韓国人のふたりしかいないような環境で、「外国人」として授業に通う日々に慣れるのは大変でした。
それから、これは仕方のないことなんでしょうけど、「日本から変わった芝居をやる男が来た」ということで、「そのキョーゲンというのは、どういう芝居なんだ」と聞かれることが実に多かったんです。「大きな声で誇張した動きで演じられる芝居に見えて、能と同じように動かないことが基本の考え方としてあるんだよ」と苦しまぎれの説明をしたり、「こういう動きは狂言的だけど、こういう動きは狂言的じゃないよね」なんて実際に演じて説明してみたり、しまいには教授にお願いして狂言をテーマにした特別授業を作ってもらったりもしました。
つまり、狂言から離れるつもりでフランスに来たのに、今まで僕がやってきた狂言に正面から向き合うような体験がそこに待っていたんですね。
1年間のフランス留学は、そういう意味でとても有意義でした。
能楽というジャンルの中で生まれた狂言という表現形式について、深く考えさせられましたし、そこに携わることを誇りに思うことができましたからね。僕にとって、大きなターニングポイント。狂言をやることはもちろん、狂言以外のことも、同じように楽しいと思えるようになりました。
ところで今回の『あの大鴉、さえも』は、とても思い出深い作品なんです。そもそも僕が幼少のころ、父と伯父たちも演じたことがあり、遠い記憶ながら楽しそうにリハーサルをしている風景が頭の片隅にあったりして、ずっと「やってみたい」と願い続けてきました。
そして、2003年には戯曲を書いた竹内銃一郎先生の演出で従兄弟の正邦と兄の宗彦と僕の3人でそれが実現できたんですが、今回は、演者は同じメンバーで僕が初演出を手がけることになりました。
大きなガラス板を運搬する3人の若者の物語なんですが、舞台でガラス板は見せず、パントマイムで演じるんです。これがものすごい体力を強いるんですよ。おそらく、年齢的に「これが最後かも」と思っています。
正邦、宗彦とも気心の知れた仲ですが、共演者であり、演出家でもある僕の言うことをどれだけ聞いてくれるのか、いろいろな意味でスリリングで今から楽しみにしています。期待してください。
取材・文/ボブ内藤(方南ぐみ) 撮影/松谷祐増(TFK)











