大学在学中に演劇をはじめたのは、「人が足りないから」という感じで呼ばれたのがきっかけなんです。特に考えもなしにはじめたわけですが、意外なことにほめてくれる人が思った以上にいたんです。
それで、「向いてるのかな」と、勘違いしまして。
それが勘違い以外の何ものでもない証拠は、そのほめ言葉というのが「初めてにしては堂々としてたね」というもので、今にして思えば、ずいぶんレベルの低いほめ言葉でした。まるで幼児に対して「上手にできたね~」と言い聞かせるようなものじゃないですか(笑)。
だから、この勘違いは、そう長く続きませんでした。
というのも、大学卒業後、就職氷河期の荒波を避けて2~3年、遊ぶつもりで上京したんですが、その間にいくつかオーディションを受けてみたんです。ところが結果は全滅で、すぐに「やっぱり向いてないんだな」ということに気づいてしまったんです。
その後は、居酒屋で1日13時間も働くフリーター生活に没頭していました。もちろん、お芝居は好きでしたから、面白そうな公演があれば見に行ったりはしていましたが、自分が舞台に立とうなんてことは少しも思っていませんでした。
そんなある日、僕が学生時代に芝居をかじっていたことを知るバイト先の先輩に、「ヒマならコントでもやらない?」と誘われたんです。「じゃあ、ヒマなんで」とノコノコと出かけていった先に、「親族代表」の当時のブレーンだったコント作家の故林広志さんがいて、後に相方になる竹井(亮介)と嶋村(太一)のふたりがいたんです。
一度、あきらめたとはいえ、舞台に立って人を笑わせることに必死になる毎日は、楽しかったですね。
人から笑いをとることって、泣かせたり、悲しませたりする以上にむずかしいことなんですけど、それだけに、思った通りに笑ってもらえたときの快感はひとしおでして。
「親族代表」では、まず台本を何度も何度もしっかり読み込むところからすべてがはじまります。そうやって言葉のニュアンスを体に染みこませてから立ち稽古に入るんです。
でも、どれだけみっちり稽古をしても、いざ本番というときのプレッシャーには悩まされます。実は、舞台に出る直前までトイレにこもって、いつも相方たちに迷惑をかけているのは僕なんです。おかげで、舞台に立っているときの僕は、いつ胃カメラを飲んでもいいくらいのきれいな体をしているはず(笑)。
だから、自分でも満足のいく舞台というのは本当に数えるほどしかないんですが、強いていえば2006年8月のTHE LIVE 「(りっしんべん)」は、自分でいうのもなんですけど、会心の出来だったんじゃないかと思います。
これは、それまですべての台本を書いてきた故林さんのもとを離れ、新たな活動を再開して2本目の舞台でした。自分たちで「これぞ」と思う方に台本執筆を依頼し、最後まで作りあげてきただけに思い入れもあったし、お客さんの反応もすごくよかったんです。
ただ、「これを超える舞台は2度とないんじゃないか」と思うと、ちょっと怖くもあるんですよね。
繰り返しになりますが、人を笑わせるって、本当に大変なことだなぁとつくづく感じますね。
「親族代表」は、来年で10周年をむかえるんですが、そんなに大変なことをよく続けてこれたなと、自分でも感心します。
演劇ブームの波にのれず、お笑いブームからそっぽをむかれ、ずっと低空飛行を続けてきたのが僕たちだと思うんですね。
演劇界から「コントやってる人でしょ」と言われ、お笑い界からは「演劇の人でしょ」と言われ、どこへ行ってもアウェーでした。
それでもここまでやり続けてこれた理由は、ある日、嶋村がポツリと言ったひとことが大きいと思います。
「シティボーイズは30歳のときに結成したらしいぞ」というのがそれなんですが、これには励まされましたね。もちろん、心のかたすみでは「オレたちにはシティボーイズのような華はないぞ」ということがよくわかっているんですが、そうやって自分をだますこともこの世界でやっていくには大切だと思うんですよ。
あと、さっき言ったように、舞台の上でお客さんの笑いを聞くことは、どんなに辛いことがあっても、いっきにそれを吹き飛ばしてしまうような力がありますね。照明が暗くてお客さんの顔が見えないような場面でも、舞台の上にいるとその反応は手にとるようにわかるものなんですよ。
僕は、居酒屋で働いていたころ、いかに早く飲み物や料理をお客さんのところへ持っていくかに勝負をかけていました。せっかく僕のいるお店にやってきてくれたんだから、できる限り満足して帰ってほしい。おそらく、舞台に立っている今も、気持ちはそれと同じなんだと思います。
取材・文/ボブ内藤(方南ぐみ) 撮影/石井和広(TFK)











