今から20数年前、僕が小学生だったころの話です。父が主演したシェイクスピアの四大悲劇のひとつ『オセロー』に連れていってもらったんです。この劇は、オセローという男が、妻のデズデモーナを嫉妬に狂って刺し殺し、最後に妻に口づけをしながら自殺をするんですが、その場面で僕は、「やめろー」と叫んでいたんです。父が劇中の登場人物を演じているということが理解できず、母ではない女性と接吻していることが許せなかったんでしょうか。幼かっただけに、僕自身はよく覚えていないんですが。
そんな少年でしたから、高校生になってもバスケットに明け暮れる体育会的な毎日で、俳優になろうなんてことは、少しも思っていませんでした。
ところがある日、クラスの女子たちの提案で、学園祭で演劇公演をやろうということになったんです。僕はまったく乗り気ではなかったんですが、どうせやるなら恥ずかしいことはしたくない。そこで、「ジャッキー・チェンの活劇をやったらどうだ」なんてあれこれ口出しするうち、気づいたらどっぷりその公演に参加することになっていました。
結果は上々で、校内でも評判をとっただけでなく、翌年にも『仁義なき戦い』を下敷きにしたお芝居を上演して好評を得まして。
それが僕に「演劇って面白いな」と思わせてくれた、最初の体験でした。
高校卒業後は人並みに大学生になって、楽しいキャンパスライフを送ろうと思っていたんですが、あまり熱心に勉強していたわけではなかったので受験には失敗。そこで初めて、自分が将来、何になるべきかを考え始めたわけですが、もともと「いい大学に入って、いい会社に入れば幸せな人生をおくることができる」という考え方は幻想だと思っていたので、大学受験に固執していたわけではありませんでした。
そこで浮かんできたのが父の姿で、若いころからずっと好きな芝居をやり続けながらも一家の大黒柱として、祖父と母と僕と二人の姉と犬一匹の生活を支えてきた人生に尊敬というか、憧れのようなものがあったのかもしれません。「俳優になる」という気持ちになったのは、僕にとって自然なことでした。
ただその後、日本映画学校という専門学校に通ってみたり、俳優養成所に入ってみたり、芸能プロダクションに所属してみたり、俳優になるための第一歩を踏みだそうといろいろなことをするわけですが、飽きっぽい性格のせいか、すべて長続きしないんです。もちろん、劇団のオーディションを受けて劇団員になるという選択肢もあったんですが、そのために当時、勢いのあるといわれる劇団の公演を見ても、「ここだ」と思えるような劇団は見つかりませんでした。
その結果、劇団という船には乗らず、ひとりボートを漕いで、船と船との間を渡り歩く毎日がはじまるんですが、ある意味それは、僕から望んでいたスタイルだったのかもしれません。
いつも「お邪魔します」という気持ちで公演に関わる以上、変なことはできない反面、まわりの顔色をうかがってばかりではダメで、言うべきことを言い、やるべきことをやり通さないといけません。謙虚さと自己主張を同時に求められるわけで、いつも新鮮な気持ちでいられるんです。
こうしてデビューから11年間、舞台だけでも30本を超える公演に携わらせてもらいましたけど、自分から手を挙げて船に乗せてもらうこともあれば、むこうから誘っていただいてしばらくの運命を共にすることもあり、出会い方はそれぞれです。
どれも刺激的な出会いばかりでしたが、今までやったことのない役に誘っていただくことは、とてもうれしいことで、自分にその役ができるんだろうかと不安を感じる以前に、「北村くんならできるだろう」と期待してくださったその思いに応えようとワクワクできるんですね。
野田(秀樹)さんとの出会いも、印象的な出会いのひとつでした。
まず、鬼ごっこやボール遊び、椅子取りゲームなどを取り入れたワークショップオーディションを基盤に芝居を作っていくというところがユニークだし、稽古中も、そのシーンに参加していない俳優でも「こうしたほうがいいんじゃないの」と意見することができる自由な雰囲気が印象的でした。演出家と俳優との垣根が、いい意味であいまいなんですね。
それが2003年のNODA・MAP第9回公演『オイル』に出演させてもらったときの率直な感想なんですが、再び『パイパー』でご一緒できる機会をいただいたことはとてもうれしいこと。機会というものは、自分でいくら強く望んでいても、そのときのタイミングで合わなかったりすることがあって、「運」とか、人の「縁」のようなものがそこに深く関わっていると思うんですね。だから、いただいた機会は大事にしなくてはいけないし、できることなら、『オイル』のときには出せなかったかもしれない、この5年間の武者修業の成果を発揮したいと思いますね。
取材・文/ボブ内藤(方南ぐみ) 撮影/庄司直人(TFK)











